信州の土と焼き物

信州の土と焼き物

文:唐木田又三
出典:1976年「信濃路」No24掲載文より

 

容易でない伝統の回復

伝統ということが言われます。ものを作るということは技術でありますから、古人の経験と知識に学ばなくては、一歩も踏み出せません。
私は現在松代焼を焼いており、本業となって五年目(執筆時)ですが、窯焚き毎に毎回血の出るような思いでやり、毎回大失敗ばかり繰り返しております。昔どおりの登り窯に松マキということで、あとは焼き方だけと思うのですが、これがなかなか決まらない。非常に複雑な、微妙な焼き方をして、それがうまくゆくと美しく焼き上がりますが、少しでも条件が変わってしまうと大失敗となるような危険な方法です。
昔の人はこんなに苦労したはずはないだろう、もっと楽々とやったんだろうと思うのですが、今となってはその点について詳しく聞くよしもありません。
一度断絶した伝統を回復するのは、実に容易なことではないとしみじみ思います。
 

瀬戸人から羨望された信州の土

きものの基本は土です。良い陶土があれば良いやきものができますが、信州の土は必ずしも良土とは言えません。しかし、非常に個性的な土であります。
昭和40年に私は瀬戸陶磁器試験所で一年間研修生として修業しましたが、その折り、信州の各地の土を試験所に持っていって焼いてみたことがあります。その時瀬戸の人たちはなぜか「信州の人がうらやましい」と言うのです。
私が持ち込んだ土はみな荒い黒ずんだような土ばかりで、本当に下の下の土なのに、これをうらやむとはどうしたことかと不思議に思ったものですが、瀬戸の街全体が純白の大地の上に乗っているようなもので、どこを掘っても純白の土しか出てきません。その土を焼いたものは当然、純白なものが多くなります。
この純白さが瀬戸土の特質であって、この土あって古瀬戸釉、黄瀬戸釉、織部釉も志野釉も映えてきてますが、純白さに飽きてくると白い土のなかにわざわざ赤土を混ぜて黒ずんだ土にすることもあるようです。
「信州の人は労せずして個性的な土が手に入る」と瀬戸の人は言うのです。なるほど、そういう見方もあるのか、と改めて私は自分の持って生まれたものを見直すような気持ちになりました。
 

信州に生きるものが信州の土を生かす

土の性格をそこなってはいけません。土の個性を十分に生かした良い手本が、その土地の古窯の作品だと思います。
信州上田に「染谷焼」がありますが、これほどスケールの大きい重量感に満ちた焼きものが全国のどこにありましょうか。無釉なだけに、見る者の全身に迫ってくる迫力は比類ないものです。備前焼と似ていると言われますが、茶陶でひねこびてしまう以前の古甕なら、ようやく対抗できる程のものです。この染谷の土は鉄分が非常に多く、火にも弱い土です。この土を使ってあれ程の堂々たる体質に作りあげた古人の力量に本当に頭がさがります。
松代焼についても古人の知恵の深さに感心させられます。限られた地域、つまり当時の松代藩領内の材料だけを使って高火度焼成に耐え得る陶器を作りあげたのですが、その方法が実に賢明です。土の調合も領内各地の土の長短相おぎなって、成形しやすく、火に強く、傷がつきにくく配慮されてあります。さらに、この土に一番似合わしいわら灰による失透釉を領内の安茂里-小市の白土を用いて作っているというような具合です。
陶芸を始めるにあたり、各地の古陶が各地の土の良い先生です。まず、その先生の導きによって「土を生かす道」を知ることでしょう。その道は行けども行けども果てしなく、深く、また広がってゆくかもしれません。しかし、まず古陶の教えに従ってその土地の土を生かす道を知る事が第一歩と思います。
どんな窯で焼こうと、どんな土を使おうとそれは自由かもしれません。しかし、この信州に生きている人間が、この生きている大地の土を生かす仕事に取り組むことが、私たちの特典なのではないでしょうか。

 

河井寛次郎の世界

「作りたいものだけを作る」ということに河井寛次郎さんは徹したと、何かで読んだことがあります。京都の河井さんの工房を訪れた際、河井さんは、まだ生まれてこない作品からの声を聞きながら、作陶しているのではと感じたことがありました。
何に使うかとか、世間で通用している常識的な形とかは問題ではない。生き生きとした作品が工房の中いっぱいに楽しげに呼吸しているのを私は感じ、物を作るということの美しさの頂点を示しているのではないかと思います。
「作りたいものだけを作る」というと、現代の美術家のように自分の考えだけを押し出してゆく立場を想像しますが、同じ言葉でも河井さんの場合は、その正反対の立場に立っていて、「ものからの声だけに忠実に従って作品を作った」が真意ではなかろうか。ですから、一見突飛に見える形でも実に自然だし、グロテスクに見える形が安らかで健康さに満ちています。強烈な色も形も、何と優雅に、何と柔らかに見る人の心にしみ入ってくることでしょう。

 

河井寛次郎の世界

河井さんがつくるのと、このような工人がつくるのとでは、”つくる”事において、その違いを明確にする事は非常に難しいのですが、ただはっきり言えることは、河井さんの作陶には観念的な動機が感じられないということです。美意識の先行がそこには無いように感じられ、その点では、己れを虚しくしている無名工人の作陶と同じ様にみえますが、作品を想い、作品の声を感じながらの河井さんの作陶は、己を捨てているようでも実は己を最大限に生かした作風ではないでしょうか。
「自分なんかどこにもいないし、自分なんかどうだって構わない。作品だけが主人公で、作品だけが大威張りで生きていれば良い。」と、河井さんの工房のどの作品も実に生き生きと楽しげです。
 

品物のいのちを知る

だ無心に作ればよい作品ができるなんて、そんな簡単なものではありません。石見焼の工人が黙々と作る甕には、どうひいきめに見ても、残念ながら心ひきつける器の魅惑が感じられません。作品の心を感じないで、ただ外側から機械的に作る時、その作品は心を持たぬ器になるということなのでしょうか。手作りでありさえすればよいというものでは決してありません。
また、伝統の窯で、伝統の技術のままに、昔ながらにやれば良い作品が生まれる、というようにも簡単には参りません。作り手の心が問題だということになります。
それで思い至るのですが、台湾の田舎(台北から30㌔程南)の窯の作陶ぶりは実に見事なものでした。大甕専門につくる窯場でしたが、これが実に堂々たるもので、野積された立派な大甕が太陽に照らされているのを見た時、身体が震えるような感動を覚えました。
「己をむなしくして、作品に心霊を傾ける」中世的な姿勢がそこではうかがえるように思うのです。この姿勢は現代の日本では既に失われてしまって、どこにも見つけることができないのではないでしょうか。
昔の日本には、そのような心を生み、そのような心が通用する社会があったようですが。
 

深い美への道

作るということは実にむずかしいものです。製造技術はどんなにむずかしいといっても、技術的なことですから研究の積み重ねによって、いつかは克服される時がきます。しかし美の問題は心の問題ということですから、これは際限もなくむずかしいことです。自我を表に出そうとすれば、その美は浅く、かえって作品を醜くする。心をむなしくしただけでは、無味乾燥の型物植木鉢のようなものになる。
 深い美は中世的な心からのみ生まれてくるように思います。現代は自己中心主義の時代で、その現代の中にあっては、自分の心の中に城を築き、自分の心をその中世的な世界に住まわせる以外に方法はないようです。
 そのようなことが実際にどこまで可能なのかそれはわかりませんけれど、河井さんの夢のような奇跡の世界や、古今東西のいろいろな仕事を見たり聞いたりして、やはり仕事一途にすすむことによって、何とか道は少しずつ開けてくるのではないかと思います。
 

先人を偲び現代に生きる

山国信州らしい心打つ古陶の数々が今に残されております。先人の業績に学びながら、現代に生きるしっかりした器をつくりたいものと念じ、日々励んでおります。