松代焼復刻の歴史

松代焼復刻の歴史

松代焼は今から210年前(文化十三年)に松代藩(現在の長野市、上水内郡、千曲市、下高井郡を領地とする十万石の藩)によって開発されたやきものです。はじめから民需用の陶器製造を目的として、壺、鉢、片口、徳利等多くの日用品が作られました。
先代又三はこの松代焼の復活のために長野県内外の古窯や陶工を訪ね調査した資料が一冊の書籍に編纂しています。
 
6book『信州松代焼』
先代故唐木田又三著の書籍「信州松代焼」
270ページの豪華美術解説本 -松代焼研究の決定版-
目次案内
・往時茫々煙の跡 松代焼の歩み 
・古陶は語る 
・松代焼古窯 その歴史と技術
・史料
価格 ¥10,000(税込み)
「信州松代焼」に関するお問い合わせは、下記まで。
 
信毎書籍出版センター
長野市西和田470
TEL 026-243-2105

 
ここではこの「信州松代焼」の一部を抜粋掲載しています。

信州の空気

信州の山と空松代焼の荒い黒ずんだ土に、青みがかったやや透明な釉(うわぐすり)がかかっているのをみると、透き通った空気の中に、まだ雪の残る春先の信州の山々を見る想いがする。引き締まった力強い形。よく焼かれた松代焼は、見る人の心を引き付けて止まない魅力を持っている。やはり、郷土の原料の持つ特徴が十分に生かされて出てきた魅力なのだろう。
信州に数ある昔の民窯の中では、松代焼が最も窯数が多く、期間も長く、その釉色と形の多様性、その美しさにおいて、信州を代表する民窯と言っても過言ではない。

藩によって

松代焼は松代藩によって文化13年(1816)から数年かかって開発創始された焼き物である。計500両という大きな資金を投入してようやく生み出されたものである。
江戸中期以降、全国諸藩は農本主義による経済のゆきずまりを打開しようとして「国産奨励」策をとった。藩による民間人への資金、技術援助等によっていろいろな産業が起こされ、庶民の生活が豊かになり向上するが、藩もまたその産物を専売にするとか、それに課税するとかによって、藩収入の増加を計ったのである。
松代藩では寛政のころ(1770)からそのような政策が始まった。初めは主として窯業であったが、藩は次第に糸関係だけでなく、製紙、製墨、製硯、鋳物、塗物、養鯉など、さまざまな産業の開発育成に手をのばしはじめた。その中の一つが陶器業というわけである。

二八看板の立つ町で

徳川300年と一口に言っているが、永い太平の時代の末の、最後の50年の始まりが文化文政時代である。この頃は庶民の生活に変化と活気が出始め、熱気を感じるばかりである。
このような活況のなかから様々な産業が起こり、松代焼も生まれたのである。これら諸産業は養蚕業ほど大規模ではないので、藩経済をそれほど潤すことができたとは思われないが、庶民の生活にどれだけ役立ったことになったか計り知れないものがある。
中でも松代焼は後々まで継続発展し、北信濃での一かどの産業にまで成長した。

松代焼一族

藩の力によって開発された焼き物の技術が、次々と各地の民間人によって新たな窯を興させ、北信濃(長野市、上水内、更埴市)の一帯で二十の窯を数えるに至った。
創業期の松代の窯を親窯とすれば、その技術を受け継ぐ窯はその子孫といえよう。
製品だけをみて、どの窯のものか特定できる程の特徴のある窯もあるが、その多くはおおよその検討がつく位で、正確な区分は難しい。もともとどの窯の製品も土とうわぐすりの基本が同じだけに共通した趣をもっているのだ。
ここでは、これら技術的にみて同族と考えられる窯を、松代焼一族と考えておさめることにした。「松代焼系」と言ってもよいし、「松代手」(安藤裕「しなのの陶磁器」)といっても良いのである。
ちなみに昔は松代焼という名は無く、寺尾焼とか天王山焼とか各窯ごとに呼び名があった。松代焼という名称は昭和10年頃、京都の陶工内島北朗氏によって名づけられ、世に紹介されたものといわれている。

生と死そして甦り

松代焼の窯明治になって鉄道開通とともに大製陶地から安価で大量の磁器や陶器が流入し、さしも活況を呈していた松代焼の多くの窯は、軒並み苦しい状況に追い込まれた。窯の多くは廃業を余儀なくされ、松代で最後まで残っていた代官町窯も昭和8年の窯焚きが最後となった。そして、松代焼の技術の命脈を伝える窯としてただひとつ桑原元町の米山窯が残っていたが、それも昭和27年の窯焚きが最後となった。
時代によって生み出され、時代とともに消えていった松代焼だが、残された昔の技術の中に、明日に向かって再び甦るものもあろうし、美を意図することなく作られた昔の製品の中に、尽きることのない美の源泉をくみ取ることができるものもある。

八田家文書と老陶工の話

八田家それぞれの窯の消長や製品の特徴を知るための資料は、小さな産業であるだけに、文書や出所の確実なものとして残されているものは少なく、あったとしても、手を尽くして資料を集めた事はおおよそ察しがつくが、満足のいく内容には遙かに遠い。忘却の闇の中に消え去ってしまった部分の方がむしろ多い。しかし、松代焼の創業期を明らかにする八田家文書が多く見つかり、また昭和40年前後に、最後の六つの窯の従事者や、直接生活を共にした家族に会って話を聞くことが出来たことが松代焼を知る上でたいへん役だった。それらの方々は既に亡くなられてしまっているので、それら松代焼を記録にとどめるための最後の機会であった。

山崎陶片コレクション

歴史数ある窯跡の大半が整地されて畑になったり、宅地になったりで、現在窯跡へ訪れても陶片を見つけることはほとんどできない。
しかし幸いなことに、松代町の山崎元氏が昭和20年代に、松代焼諸窯の跡地から、教職のかたわら長期にわたって陶片を採集、分類、保管され、そのすべてを長野市に寄贈された。
陶片とはいえ、古い窯元の確実な伝承品が数少ない現在では、それぞれの窯の製品の土や釉を知るための貴重な資料である。(それらは象山記念館に保管されている。)

物つつましく、心豊かに

梅松代焼が盛んに使われた時代は、暮らしが貧しく、従って「物を大切に生かし、慎ましく生きた」時代でもある。しかし暮らしの精神的質は以外に高く、むしろ今より高かったのではないかとさえ思う。
自制を失った限りない膨張が、人間の存在を危うくしている。物には限りがあり、限りある物を大切にしなければならぬとしても、その物は「大切にするに足る」ものであって欲しいと思う。
昔の暮らしは貧しかったとはいえ、その暮らしを支えてきた品々は、おおむね味わいの深いものであったからこそ、つつましい中にも、心豊かでいることが出来たのであろう。
昔の松代焼を眺めながら、そのようなことを想うのである。

古い松代焼<展示場>

公共施設

松代町真田宝物館 83点
75点
(内島北朗氏旧蔵)
(吉川元三郎氏寄贈)
日本民俗資料館(松本) 115点 (吉川元三郎氏寄贈)
上田市立博物館 15点 (    〃   )
菅平高原自然館 15点 (    〃   )
松本民芸館 約60点

 

個人コレクション

吉川元三郎「松代焼古陶館」 約300点 (松代町象山記念館前、自営陳列館)
荻場 芳雄 約300点 (長野市篠ノ井御幣川)
米山二三男 約800点 (長野市篠ノ井築地)
今井もと江 約200点 (長野市松代町代官町)

 
以上 内容の一部紹介 「信州松代焼」 <松代焼の歩み>から引用